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最終話:この命に、全てを託して

 粘膜の扉を抜けた先、そこはまるで異世界だった。卵管の奥。広がる空間には音がない。鼓動も粘液のうねりも、すべてが止まっているかのように静かだった。

「……あれか」

 ジローが前方を指さした。そこに──いた。ゆっくりと浮かび、ほのかな輝きを放つ丸い存在。それが、卵子だった。
 直径は精子の何十倍もある。表面は無数の卵丘細胞が層を成し、まるで柔らかな城壁のように包み込んでいた。ふわふわで、とろけるような膜が微細な粘液と共に漂っている。

「……吸い寄せられる」

 サブローが思わず前へ出そうになる。吸引というより、誘引だった。卵子から発される何かが確かに精子の本能を優しく引いていた。

(これが……生命の中心……)

 イチローの中で何かが震えた。そのとき──

ぬるり。

 卵丘細胞の層がほんの少しだけ開いた。まるで「今ならどうぞ」と、優しく招くように。だがその裏には確かに選別の意志があった。

「……行くしか、ないな」

 ジローが低く言った。

「ラストダンジョンってやつか……うひょ、緊張してきた」

 サブローは笑っていたが、その目は本気だった。イチローは言葉を出さなかった。ただ、前を見据えていた。目指すはあの中心。誰にも保証されていないたった一つの場所へ。
 三人の精子が、卵子の前へと滑り込む。柔らかそうに見えたその表面──卵丘細胞の層は、間近で見るとまったく異なる印象を与えた。それは粘膜が織り重なった繊維の迷宮。まるで糸のように細く、ぬるりと絡み合い、周期的に微細な振動を起こしている。

「……誘ってるように見せかけて、完全に拒絶構造だな」

 ジローが分析するように呟いた。

「入り口、あるっちゃあるけど……動いてやがる」

 サブローも珍しく言葉が短い。実際、透明な繊維の合間にはごく稀にわずかな隙間が生まれる。それはまるで、呼吸の一拍目と二拍目の狭間のようだった。

(このタイミングを……狙えってのか……?)

 イチローの身体がぴくりと反応する。だが、問題はそれだけではない。バリアの内部では微細な粘液が絶え間なく逆流している。まるで通り抜けようとする者を検知し、押し返す仕組みのように。

「最短で入り込まなきゃ、跳ね返されて終わりだ」

 ジローの声は冷静だったが、目は鋭く揺れていた。

「しかも入れるのは……一人だけ、だな」

 サブローが小さく笑う。
 優しさと拒絶が同居する卵子の最終構造。誘うようで、拒む。温かいのに、冷たい。これは、選ばれた者にしか開かれない門。

(その瞬間……迷っていたら、絶対に通れない)
「……行くぞ」
「よし……じゃ、行こうか……!」

 サブローも身体を引き絞る。そして、三人は同時に飛び出した。
 一瞬の呼吸、卵子のバリアが開いた。卵丘細胞の層が淡く震え、わずかな通り道を見せる。三人の精子が同時に跳んだ。ぬめりと粘度の波に身を任せず、逆らいながら。

「っしゃあああっ!!」
「ここだ……!」
「行くぞぉぉぉ!」

 叫びと共に空間を貫くように進んでいく。ぬるり、ぬるりと繊維がうねる。まるで、進入を拒む意志そのものが渦を巻いているかのように。
 バリアの狭間に飛び込んだその瞬間──ジローとサブローが顔を見合わせる。ふっと笑うジロー。小さく頷くサブロー。二人は僅かに速度を落とした。

(頼んだぜ、イチロー)

 サブローが笑顔で言った。

(最後まで行け……お前ならやれる)

 ジローが静かに言った。
 イチローの前に道が生まれる。たった一体が通るに足る空白。風が生まれ、光が差した。イチローは卵丘の中心へ、全力でまっすぐに突き進む。

「うおおおぉぉぉぉっっ!!」

 バリアを抜けると繊維が裂けるように広がり、ぬるりと彼の身体を吸い込んだ。まるで母の腕に抱かれるような、柔らかく湿った内側の世界。
 イチローは振り返った。視界の向こう、繊維の向こうに二人がいた。サブローはふざけるように手を振っている。ジローは目を細めて微笑んでいる。
 イチローの目に涙が浮かぶ。彼らの身体が少しずつ──ぴし、ぴし、と小さく弾け、泡のように透けて静かに消えていった。

「お前ら…………ありがとう……」

 イチローは静かに目を閉じ、震える声で呟いた。二人の想いが、自分をここまで導いてくれたのだ。
 イチローの体は卵子の奥へ、全身を溶かすように結びついていく。ぬくもりが全身を満たし、そして、イチローの時の流れが止まった。

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